現代生活の画家

 午後2時起床。大阪の知人の依頼で、図書館で前世紀のイギリスの週刊誌を調査。

 ホームズの初出誌として知られる『ストランド・マガジン』がヴィクトリア朝時代の雑誌として一般的にイメージされるものだが、今日の文献もその系譜に属するもの。つまり大判で薄手で、挿絵が多い。ヴィジュアルを重視するカルチャー誌というと、今の日本のスタジオボイスにもつながる百年ちょっとの比較文化的系譜が描けるに違いない。シャーロキアンがこの挿絵のため雑誌に目がないことは有名だが、それも道理、いったい挿絵に触れるのは絵画を見ることや、ましてや彫刻なんかとは別種の経験だ。

 雑に描かれているわけではなく、むしろ耽美的に優美なテイストを醸し出そうとしているけど、それが逆にあのジャンクな味わいになっているというのはなんとも愉快だ。ビアズリー結構。サイム結構。ハリー・クラーク大いに結構。『サロメ』のブリリアントにビアズリーの洗練をマリアージュさせたヴィクトリアンの機知は尊敬に値するけれども、それは別として、イギリスの挿画画家ではクラークが頭一つ抜けている、と言わざるを得ない。ビアズリーの知性的な画風は、イラストレーターにしておくには天才すぎた。俗物どもが賢しらぶって広げるサブカルには、彼らのお里にお似合いの泥臭いクラークのゴシックがお似合いだ。

 もっとも、イラストレーターとしてはクラークですら才能がありすぎる。お隣フランス、ボードレールが現代生活の画家と呼んだコンスタンタン・ギースこそが(マクシム・デュ・カン的な意味で)挿画画家にふさわしい。ググればわかるけど、うねうねと線がミミズみたいにのたうっているオブジェクト。筆致とか構図とかそんなものを超越した、もはや絵と呼んでいいのかわからない紋切型のキッチュはジャンクな情報の塊、それがイラストレーションなわけ。この言葉の原義は、もともと説明のことだったのも思い出そうか。

 そんな情報ジャンキーのご先祖さまに思いを寄せつつ、退屈だーと欠伸しながらコピーを取って、落合でレッスン。家ではエドラダワー10年をシングル3杯。