就眠儀式

 日記とさよならしたのはとうの昔だった。もう思い出せないくらい。

 覚える気もない(そもそも記憶がやる気の問題だと思わない人がたくさんいそうだけど、僕の場合はそうだった。この日記を読んで何か思っている人の存在に比べれば、これはずっと確実なことだ。)昔のことを手繰ってみると。今まで何十年と生きてきたけれど、未だ日記と出会ってすらいないような気がする。品行方正が極まって逆に面白すぎた夏休みの宿題の日記は、押し付けられるや否やもう一つの世界、甘美で退屈でデオドラントな夢のようなヴァカンスを想像する遊びの相方になってくれて、三時間と待たずすっかり汚されてそれきりだった。頭の中のアヴァンチュールを楽しむのに夢中で、その後のことはすっぽり記憶から抜け落ちている。歴史を捏造するだけでなく提出という本来の役目も忘れて二度も裏切りを重ね、このときから大事な人に誠実でいられなかったみたいだ。

 集中するときは視野狭窄で、事が済んだらすぐに蚊帳の外。いつもこの繰り返し。一日で二万字を書くくらいは朝飯前だ(たぶんその日は朝飯もブランチも抜いて、味が濃くてちょっとだけディナーを食べて終わりだろう)けど、二時間も寝たら何を書いたか別人のように覚えていない。別人のものなら読む機会もあるだろうけど、それすらないのだからなおさら悪い。

 

 日記を書くことは祈りに似ている。人が、それまでの自分とおさらばして別の人になろうと、ありったけの背伸びをしているみたいに見える。こんな凡庸な言い回しは二十一世紀に使いたくないけど(それでも二十世紀のたけなわに、二流の風俗作家としてつまらないヒット作を飛ばすよりは何倍もマシだ)、気づいたら凡庸ならざるものなんてこの世界からは絶滅していたのだから仕方ないじゃないか。

 物心ついてから、一日を終えられたことがない。力尽きるまで本を読み、映画を見、音楽を聴いていたからだ。仕事も終わり胃を満たし本を読んで更には執筆も捗り、これにて一件落着シャンシャン、なんてふうに小奇麗にその日が幕切れる経験は文字通りゼロだ。気がついたら読みさしの本、起動しっぱなしのPC、飲みかけのウイスキー、そんなものに囲まれて身体が横たわっている。確たる始まりも終わりもなく、ズルズルベッタリと生が続いていくだけなのだ。

 原始、人間は昼間ウホウホとマンモスを狩って夜は穴ぐらで眠りこけていた、なんて幼児退行的な自然主義は大嫌いだけど、人工的な自然のグロテスクは大好物だ。せめて一度でも、自分の手で一日の終わりを定め、安心と諦観のうちに息おだやかに寝付いてみたい。不眠と過眠のあいの子の、これは大それた願いだ。

 もはや日付の境目もお構いなく日夜SNSは大車輪、あちらではメンヘラとチンピラがくっつきこちらでは意識高い起業家同士がくっつきという時代。一日をこの手で終わらせるにはもはや日記しかない。就眠儀式、しましょうか。